桃の里から

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岡潔・春宵十話
春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)
(2006/10/12)
岡 潔

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大数学者といわれる岡潔氏の随筆集『春宵十話』を読みました。世界的な数学者でありながら、教育者としても優れた方であり、1960年代に書かれたこれらの随筆では、戦後の教育によって日本人の核をなす「情緒」が破壊され、日本人とはいえぬほど変質していくその姿を嘆いています。

岡氏の憂国の情に溢れた文章の数々にうなずき、考えさせられます。40年以上も前からこれだけ的確に現代に通ずる日本の病理を見抜き、すでに手遅れかも知れぬ我が国とそのような国家存亡の危機にさえ全く気付きもしない人々を心配しています。現在我々は岡氏が予見していた通りか、それ以上の有様に呆然とするばかり。気付きを得るためにも、いまでも少しも色褪せないどころか、ますます我々の間違いの核心を突き、普遍性を持つ岡氏の著書をぜひ読んでいただきたいと思います。ここでは著書のほんの一部のみを紹介させていただきます。

(引用開始)
P101 心配なこと

 毎日新聞に「春宵十話」を連載したあと、いろいろな人からお手紙をいただき、また直接私に感想を述べられた方もあった。手紙はおおむね私に賛意を表されたものだった。
 しかしその中で、労働者らしい人の手紙で、自分も国のことが心配になるというのが一通あったほかは、一口にいうと失礼ながら観念の遊戯と思われるのが大部分だった。私が一番心配しているのは、心配しなければならないことを心配しないといういまの風潮なのである。ところが大部分の手紙は、心配なんかちっともしないで、私のいったことも観念の遊戯だと思い、子犬が親犬のしっぽにじゃれつくように私のしっぽにくっついて観念の遊戯をしている、そんな感じのものだった。そういうふうな手紙をもらってさらに自分を見つめることになったのだった。

(中略)

 私が本当に心配でならないのはいまの教育のことである。事態がもっと切迫してくれば、みんな気がついてくれるかもしれないが、それでは遅すぎるのだ。実にめちゃくちゃな教育だと思う。いまの教育制度は進駐軍が師範学校を二段とびに大学にするなど、だいぶ無理をして作ったもので、よくない種子をまいたのは進駐軍だが、しかしそれをはぐくみ育てたのは日本人である。それでも原則から悪くしたのに害がこの程度ですんでいるのは、日本人が情操中心でこれまでやって来た民族だからで、欧米のような意志中心の国なら、すみずみまで原則に支配されるからもっとひどいことになっていたに違いない。しかしこれ以上悪くならないという保証はどこにもない。

P106 顔と動物性

 教育の結果というものは顔つきに一番よく出るものであるが、そう思ってみると、いま女性の顔は大変なスピードで変化している。人間の顔に動物性が大きく入り込んで来ているという感じである。戦前女学校を出た人と戦後女学校を出た人ではかなり顔つきが違う。先日京都へ行ったとき気をつけてみると、最近高校一年生くらいから下がまた変わってきたように思えた。
 仏教で因果応報というのは、前の世の報いが次の世に来るということだが、いまの女性の顔の変化は因も果もすでに現世であらわれている。きょうやったその結果がきょう出ている。これは釈尊でも説いていないことである。まさに超スピードで進化を逆行し、人から動物に変わりつつあるという感じだが、動物だけではすまないで、人造人間を作っているのかもしれない。
 いったいどこに行くのだろう。決定的な瞬間が近づいているのかもしれない。すべて一ぺん精算してやり直したほうがいいのだろうか。理論物理がアインシュタイン以来二十年余りで原爆を探りあてたというのは文化史における一つのドラマで、普通ならこんなに早く探りあてられるものではない。そこに異常な、何か宿命のようなものが感じられる。どうもいまの世相を見ていると、何だか原爆がある使命を帯びて出てきたのではないかと思えるくらいである。それは日本だけのことではない。しかし、日本は昔から情緒の中心だけは健在だった。それが汚されたら、いったいどこを指して日本というのだろうか。
 差し当たりこの女性の顔の変化をどうくいとめるか、まさに未曾有の国難といってよい。繰り返すが動物性だけは入れてはならない。他のものと害悪の次元が違うのだ。男性の顔も変化しているのだが、女性ほど情緒に影響されないだけに、半分ぐらいしか変わっていないように見える。
 六月に郷里に近い和歌山県九度山の中学校に招かれていった。そこで、授業を参観させてほしいといって、実は生徒の顔を見たところ、いなかであるせいもあろうが、幸いなことに動物性はあまり入ってなかった。その代わりしまりがないという感じであった。それで私はちゃんとした顔にするためには、もっと礼を入れてほしいこと、ことば使いをもっとていねいにしてほしいことを希望しておいた。そのあとしばらくこの子供たちの顔がちらつき、数学がやりにくくて困った。消そうと思えばとろとろと眠るより外に仕方がないという有様だった。
 動物性があまり入ってなくても、ひどくしまりがないのは困ったものである。天の秩序のもとは礼なのである。敬うことは必要だが、敬うだけでなく礼をすることはさらに必要だと思う。生徒は先生にお辞儀をし、もちろん先生のほうもすべて人の子であるという意味でお辞儀をするべきだと思う。
 いまは礼が見失われているのではないか。私は二時間の講義の途中で中休みをするが、新しく大学に入ってきた学生たちは、中休みの間に黒板の字を消しておくということを知らない。
 「衣装して梅改める匂いかな」と蕉門の句にもある。およそひきしめるものすべてみな礼に属するといってよい。礼を抜きにすることはなれることであり、ここからやはり獣性がはいってくるのである。

P148 義務教育私話

 最後に、国家が義務教育と並んで力を入れるべきものとして天才教育があると思う。いま全産業界にはオートメーション化が足音高く進行している。第二の産業革命である。さらに貿易自由化によって、日本は激しい国際競争の舞台に乗り出そうとしている。これは実に容易ならぬ難関である。冒頭に述べた日本民族絶滅の危機というのも、この難関を指していっているのである。これを突破して生き抜くには、天分のすぐれた人の独創力にまつほかない。そのためには、大多数の人の頭がいくら教育してもコピーしか作れない以上は、少数を選び出して天分を発揮させるほかはないのである。いまこそ独創がどんなに大切か、わかっているのだろうか。少なくとも義務教育の現状はとうてい独自の見解などは期待できないありさまである。あえて危機というゆえんである。
 これまで日本民族は、極端にいえば土地に米を作り、海から魚をとっ食べるというやり方だけで来たといえる。一度も激しい競争などやったことはない。だから独創とコピーの区別など知りもしないだけでなく、コピーのほうを信用して「私はこう思う」などというのは信用しない。実質よりも形式や観念を大切にする。形式的な学歴によってその後の社会的待遇まで決まるというのは、まるでままごと遊びのようなもので、温室の中だけできることなのである。

(中略)

 文化だって、外国で獲得したものをコピーするのがすなわち文化だと思っている。だからコピーをふやすのが文化を高めることだというわけで、大学ばかりやたらにふえることになる。日本の大学はヨーロッパ全土の大学を加えたよりも多いというが、いったいどうするつもりだろう。形式的悪平等教育が早晩役に立たなくなるのを知っているのだろうか。
 しかし、西洋文明というのは、国に与えられた人たちの天分をフルに使わなければ、その国はとうてい食ってはいけない、そんな猛烈な競争で成立っている。ちゃんと教育をやれば立派な花を咲かせるという種子はきわめて少ないのだが、その少ない種子を国が選んで、使える天分はみな使い切っている。フランスも西独も、おそらくアングロサクソンもみなそうやって激しい生存競争を生き抜いている。そしてここでは少数の高いレベルが非常にものをいうのである。
 ラグビーでも野球でも、試合に勝つためには一番すぐれたメンバーを選手にしなければならない。これはごく当たり前のことである。天才教育というのもこれと同じで、国に与えられた人的な力をフルに発揮させるというしごく当然のことなのである。なにも選ばれた人が偉いというのではない。我も我もと選手になりたがったら、だれを選ぶかだけにエネルギーを取られてしまい、勝てっこないというだけのことである。ただ、選ばれるべきすぐれた人というのは、少なくとも日本のくにでは、情緒のきれいな人という意味である。邪智の世界の鬼才と混同してはいけない。


(引用ここまで)

岡氏がこの著書の中で紹介している『魔法の森』という童話がまた良いです。残念ながら原作は見つからないのですが。主人公の「何か大切なものを忘れているような気がして、どうしてもじっとしていられず、…」という心の状態のその情操を岡氏は「心の故郷がなつかしいといった気持ちではないだろうか。そしてこの気持ちがなければ、人の人たるゆえんのもの、つまり理想を描くこともできないのだ。」と言っています。この言葉はとても心に染みます。

2008/08/22 Fri | 教育 | トラックバック(0) |permalink
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